火焔型土器とは

「火焔土器」は、昭和11年(1936)に近藤篤三郎氏によって長岡市の馬高遺跡で発見され、復元された一つの土器に付けられた愛称です。その形が燃え上がる焔に似ていたことから、この名称が生まれました。その後、この「火焔土器」と似た特徴をもつ土器が発見されるようになり、これと区別して現在では「火焔型土器」という用語が広く使われています。また、火焔型・王冠型土器と共に出土し、これらと共通の雰囲気をもつ土器を合わせて「火炎土器様式」ととらえ、「火炎土器」という用語を使用する研究者もいます。

火焔型土器出土遺跡(●)の広がり

火焔型土器の最大の特徴は、口縁部に付く鶏頭冠把手と鋸歯状口縁、そして、縄文を使用せず隆起線文と沈線文によって施された浮彫的な文様です。これらの文様により、頸部と胴部上半にはS字状渦巻文、胴部下半には逆U字状文が描かれています。その他、鶏頭冠把手の間には袋状突起、鶏頭冠把手の下には眼鏡状突起が付けられています。王冠型土器も基本的に文様については火焔型土器と同じですが、鶏頭冠把手の代わりに短冊状の把手が付き、鋸歯状口縁でなく波状口縁となっています。

火焔型土器は富山・長野・山形県などでも確認されていますが、そのほとんどが新潟県内、特に信濃川上・中流域(津南町・十日町市・長岡市)で集中的に出土しています。その特異な装飾性から研究当初より、祭器として使用されたと考えられていました。内面に炭化物(オコゲ)が付着した例が多く見られることから、煮炊きに使われた土器であることは間違いありませんが、日常品でなく祭事など特別な日にのみ使用された土器と言われています。なお、遺跡出土の土器全体に占める火焔型土器の割合は5%以下です。

作成:十日町市博物館学芸員 菅沼 亘

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